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桜を背負った男たち - バックナンバー

第6回 小笠原博氏インタビュー 掲載日:2004/11/18
平均身長で10cmほど劣る日本のFWにとって、ラインアウトは苦戦の連続。ただ小笠原(左)寺井の両ロック陣が頑張り、ボールを一方的に支配されることはなかった。 今回、ご紹介する小笠原さんについては、前々回の坂田さんと同様、日本選手権で戦った、近鉄黄金時代のメンバーであり、私が早稲田4年生の時に、日本代表としてニュージーランド遠征にご一緒したのが、初めての出会いである。

近鉄黄金時代といえば、現在、トップリーグに代表される強豪チームがシーズンを大いに盛り上げているが、過去、日本製鉄八幡時代のリコー、近鉄、また新しいところでは、新日鉄釜石、神戸製鋼の時代と、歴史の中で印象に残るチームは数多くあるが、当時の近鉄は、黄金時代と呼ぶにふさわしい偉大な足跡を残したチームである。
坂田さん、小笠原さんは、その黄金時代を支えた選手であり、日本を代表する名プレーヤーである。

それにしても、現在行なわれている1シーズン3つのリーグ戦を勝ち抜ぬくという、過酷な戦いは、数年前では考えられない事である。
何にもまして、これだけハードな戦いの中で、選手、チームのコンディショニングが重要であるし、トレーナーに掛かる役割、責任ははかり知れない。
時代が変わろうと、流れに乗り遅れまいと各チームとも努力し、競い合ってチーム作りをしてきた結果が現在のトップリーグであるし、そういった強いチームから、多くの日本代表選手を輩出してきた歴史がある。

話が大きくそれてしまったが、本題に戻そう。
小笠原さんとは、日本代表で2年間ほどお世話になった。
当時、ロックのポジションであった小笠原さんには、ラインアウトスローについて、よく指導を受けていた。
ご存知ない方は驚かれると思うが、70年代まではラインアウトスローは、フランカーがスローしていた。フランカーのポジションであった私は、実は、スローイングのスペシャリストで、目をつぶっても声や合図ひとつで、タイミングどおりにスローできる練習を、繰り返しやっていた。
代表時代、何度も、小笠原さんに投げてきたが、はじめは、「ミスをして、怒られると怖いな?」などと思いながら、いつも緊張して投げていた。
しかし、私が勝手にそう思っていただけで、実際のところ、あの風貌からは、想像できないくらいシャイな性格で、心優しい人柄であった。

ここで、ルールについても、少し触れておきたい。
日本代表時代、幾度かの遠征を重ねる中で、体の大きな外国人選手と、いかに戦っていくか大きな課題があった。そんな中で考えられたのが、ショートラインアウトである。現在のルールでは使う事はできないが、当時のルールは、ラインアウトは、すばやくセットして投げ入れる事が可能だったので、タッチにボールが出ると、マイボールラインアウトに早くサインを出して、ショートラインアウトで動きを作り、ボールを獲得するという効果的な策があった。これは、一例であるが、ラグビーの歴史の中での、世界とどのようにして戦うか、多くのことが試された。

小笠原さんは、その後、近鉄を退職され、現在トップリーグで活躍している「ワールド」チームの初代監督に就任された。現在の「ワールド」チームの基盤を作られたのは、小笠原さんの力によるものが大きいと言っても、過言ではない。

現在、小笠原さんは屋久島に住まわれており、お会いする機会は少なくなったものの、時折、電話でお話させて頂く。
今回のインタビューについても、とてもシャイな方(?)なので、私自身の言葉を足してご紹介する事になるが、ご勘弁願いたい。
文章の中で、“私”とあるのは著者である、石塚本人の事と理解して読んで頂きたい。

●インタビュー : 日本代表時代の思い出

代表時代の一番の思い出は、なんといってもニュージーランドで戦った、ジュニアオールブラックスに勝った事である。
もちろん、試合前に、負ける気持ちで試合をする選手はいないと思うが、ジュニアオールブラックスに、日本代表が勝つなどと考えたファンは、誰一人いなかったと思う。小笠原さん本人も「勝てないだろう」と思いながら試合に臨んだとの事。
チーム成績も振るわず、その試合までに連戦連敗でムードも悪く、最悪の状態だった。しかし、勝負とは分らないもので、このジュニアオールブラックスに勝利することで、それまでのチームのムードも一変し、その後の試合に大きな変化があった事は言うまでもない。

昭和46年9月28日 日本代表対イングランド代表、伝説の秩父宮ナイター6対3の壮絶な試合。選手達に迷いはなかった。
「絶対に勝てる。」という高いモチベーションで戦った事が、あの伝説の名勝負を生んだのだろう。

現在のルールは、当時とは大きく変わり、ラインアウトも、スクラムも、マイボールを獲得する事が可能になったが、我々の時代は、マイボールラインアウト、マイボールスクラムのボールを確保する為に、多くの工夫が必要だった。
例えば、ラインアウトでは2人、3人、そして早い動きを使ったり、また現在のようにラインアウトは、セットされてから投げ入れる必要はなく、タッチに出たボールはスロワーが、自分でボールを取り、すばやくロックとタイミングを合わせて、投げ入れる事が出来たので、攻め入った好機には、サインなど使わず、アイコンタクトだけで投げ入れる等々、プレイの中で多くの工夫をしていた。

当時の日本代表は、スクラムが強かった、外国チームに負ける事は無かった。
とにかく強かった。私は7番、右プロップの原さん(後にプロレスラーになった阿修羅 原さん)を押すが、最初の押し込みだけで、後は肩をつけているだけというくらい。とにかく相手に負けることは、一度も無かった。

私も参加した、ニュージーランド遠征での出来事。
スクラムで、日本は押されるどころか原さんの押しは強力で、何度スクラムを組んでも押し負ける事はなかった。それでも押し続けていた時、“強烈なパンチ”を顔面に食らい、鼻、唇から流血する事があった。レフりーには全く見えておらず、反則にもならなかった。
考えてみれば、相手はどんな手段を使っても「対面の選手に負けたくない」というプライドが、そんなラフプレーとなってしまうほど原さんのスクラムは強かった。

現在の日本代表について、小笠原さん曰く、「セットラインアウト、スクラムは大丈夫だとしても、やはりディフェンスに問題がある」。
「もっともっと、前に出るタックルをしなければ勝てるわけがない」、「それは石塚が一番良く分かるだろう」と。
ゲインラインで、1人をタックルしてもボールをつなげられるだけだ。前に出て、たとえ、一人目がタックルをはずされても、二人目が前に出ていれば良いんだ。言われて見れば、私は昔、突貫小僧と呼ばれ、フランカーとして、最初に前に出るディフェンスだけの選手だったため、そう呼ばれていた。
「この前に出るタックルが、悪すぎるのではないか」。日本代表を思えばこその、苦言である。

● 小笠原博 プロフィール
青森県出身
日本代表キャップ 24
1943年4月23日生まれ


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